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2009年8月5日水曜日

自民党と民主党のマニフェストを検索

グーグルで自民党と民主党のマニフェストを比べてみようとしてみた結果。
 自民党はマニフェストを探すのが解りづらく検索するのに、見せたくないという意図があるかどうかは解らないけれど、困難だった。グーグルの検索で自民党としてもマニフェストの項目は出てこないし、自民党とマニフェストの検索をかけても一番先にマニフェスト自民党とは出てこないのである。ある自民党と民主党のマニフェストの比較からその文章の本題を読むことが出来た次第である。
 民主党は、民主党で開き、マニフェストの項目があり、開くとマニフェストが出てくる。小沢さんが全面にでていて、鳩山さんが出てこない。でも、党首は鳩山さんだよと思いながら、マニフェストを読み、財源がどうのこうのの問題はあるにしても、国家公務員や地方公務員の財政感覚をまず、正していかなければこの国家の将来はないのだろうと考えてしまう。
 地方分権というけれど、地方でも同じことが自民党と地方公務員の手で行われている。私が住んでいる茨城県では、必要のない飛行場が出来る予定であるが、茨城空港が出来ても何の利用価値がないのに作られている現実や、無駄な税金を使って水戸の駅前に作った茨城教育会館ビルは、結局、大手予備校に売却されてしまっている。
 もちろん、水戸市役所が旧県庁のの場所に立て替えをするなどと水戸市が行っているが、その理由としては、建物の老朽化だそうだが、移転をしてまた、建物を立派にして職員の仕事の場所を快適にすることが行政の仕事ではないどろうと思う。
 この税不足は解消されないままに老齢化社会に変わっていくことを考えれば、徳川斉昭の質素倹約の精神の爪のあかでも飲ませてあげようと思ってしまう限りだ。
 このような社会状況の中で、政治が、地方公務員や国家公務員の無駄をきちんとセーブする働きがまともな政治だろうと思える。だから、歳出を増やして、税金を考えるのではなく、身の丈にあった税収と予算配分を公務員にも自覚を持って税金を使える仕組みが必要だろう。
 歳入があって初めて予算は成り立つ。人件費が高ければ、人件費を削減してワークシアリングを公務員にも導入しなければならないことは当たり前のことなのだが、公務員方という自分たちで作った都合のいい法律で自分たちを保護していては何も良い方向には変わらないのだろう。
 マニフェストをよく精査して、今回の衆議院選挙は投票しようと思っている次第である。

2008年7月2日水曜日

モンスターペアレンツは、プアースクールと同じ?


モンスターペアレンツとは何か?
昨日から始まったフジテレビの番組、モンスターペアレンツ。学校と父兄の問題をテーマにした番組で、学校に話す内容でもないことを常識のないことで押し切る父兄が多くいるという話だ。もちろん、その話は、耳にしたり、ひょっとして、自分もその傾向にあるかもしれないと思ったりもする。
その反対に対峙するプアースクール
テレビの内容だけ見ていると、父兄側の部分がクローズアップされているが、学校側と父兄側との問題でこの溝は広がってしまった気がしてならないのだ。学校の対処の仕方も、機敏ではないし、先生の質の問題も正されなければいけないことだろう。
 いじめにしても、対処が遅く、相談しても担任のところで止まっていて、その後で大騒ぎというのが学校の実情で、学校が何おために存在するのかを考えれば、子供のためなのだという根本的なことが置き去りにされてしまっている。子供が学校であったことやその他のことを楽しく話したり、学校に行くのが楽しい状態であれば何の問題もない。
 少人数で子供を見られることを考えれば、今の先生の環境はいいのだろう。しかし、先生側には、よけいな書類を多く作らなければならない事情があって、生徒と接する時間がないという。現場を解らない文科省が決めることは、的がいつも外れているのは、古今東西のことだから仕方がないにしても、生徒の能力を伸ばせる先生が良い先生なのだが、授業を見ても教え方が下手だと素人が感じてしまうのでは、先生としても反省してほしいと思ってしまうこともある。
 結局は、先生と生徒、父兄の3者の間で信頼関係や連結が出来ていればこのようなことは起こらないのだが、現実的にはこのバランスが崩れている現状の中でモンスターペアレンツプアースクールなる言葉が出来てしまうことになる。

2007年10月15日月曜日

先日起こった自殺ほう助殺人事件を考える

 携帯電話で自殺の手助けをし、二十歳の派遣社員を殺してしまった事件を自分なりに分析してみた。果たしてこれは,単純な殺人事件で終わらせていいのだろうか。根本的に社会情勢が生んだ歪みではないだろうか。と思えるのは、自殺を頼んだ二十歳の派遣社員にしても,地方から出てきて自分のポジションに疑問を抱いて将来に絶望を感じた結果,携帯の自殺サイトにアクセスしたものと思えるのだ。このことは,自閉的に追いつめられた個人が見えてくるが、頼る家族や友人よりも携帯のサイトに頼ってしまったことである。もちろん,携帯のサイトの自閉的なアクセスにも問題はあるが、彼女は,仕事、将来の希望に絶望していった果ての結果になってしまった。派遣の仕事に就いたものの,展望がないと感じてしまったのだろう。
 死に至るまでになったことは、今の社会情勢にはないのだろうか。企業の都合のいい人の扱い方に派遣社員は犠牲になっている。派遣社員は、ていコストで働き、日常の生活を貧窮しながら生活し、派遣会社を経営する経営陣は,空前の利益を得ている実態は何だろう。団塊の世代が退職になる時代になっただけで、政府は景気が好調になった,就職率が高いとアピールしているが、ただ単に,働き手の人数の絶対数が足りないだけなのである。その前の不景気のときに,会社を維持するためにリストラと減収を行った結果もこのようになったのだろう。会社を維持するために国際化をグローバル化ということを隠れ蓑にした結果なのかと思えて仕方がない。海外に人件費の安い生産コストを求め、生産や業務を映した企業の責任は大きいし、国を大企業はどう考えていたのだろう。会社が存在しなければ、社員は成り立たないと考えて、その保護のために生産コスト等を他に映したのだろうか。そのようなことは存在しない様な気がする。古い考え方なのだろうが,人がいなければ国はなくなるのである。生産コストのみの追求は大企業からの判例となり,中小企業もそのように習い今の様な結果になってきた。そのような中で,彼女の様に都合のいい使われ方をする人間がいる。
 今や一流企業でも,都市銀行でも派遣社員がいなければ仕事が成り立たないし、行政機関でもその占める割合は大きく、一斉に辞めてしまったらば、この社会の機能は成り立たなくなってしまうのである。企業の都合でこのような都合のいい状態になっているが、仕事とはいったいなんだろうかを真摯に考えなければならないことなのである。
 また,殺人ほう助をした人物の方は,社会の中で、どのような立場だったのであろうかを考えてみなければならない。結婚をしていて,子供が一人いた家庭を持っていた人物である。仕事もしていたようだが、採算の取れない仕事をしていて、生活もままならなくなり、このようなサイトを開き,お金を得ることを考えだしたのだろう。もちろん、何百万の借金があり、困っていたのだろう。30歳の年齢で仕事を変えることは大変なことだろうと思われる。この世代は、就職難時代の年齢で一番,社会に対して懐疑的になっている世代だ。そのような社会情況の中でこのような事件が発生してしまった。
 サイトを開いて,睡眠導入剤が手に入る環境があり,そのものが売れた時からこの人物の人生が変わってしまった。千葉で仕事をしているが、仕事がなく貧窮に追い込まれたところに地方と中央の格差が生まれてしまったのだろう。千葉は,東京に近いが、そのような地方としての格差は,地域によって,人によって生まれてしまう。ただ単に,地方と都会の格差社会だけでは済まされないことなのである。
 サイトにハマってしまい、アクセスの件数があると何か出来る様な気がしてしまうが、それは妄想であるし,そのサイトを発するサイト運営者のモラルが基本的な根幹にあり,そのような中でサイトは成り立っているのが基本的な考え方だが、得てして陥ってしまうのは、サイトのアクセス数を増やすためにモラルを超えてしまうことだ。してはいけないことをしてしまうのは、個人的なモラルでしか成り立たない。しかし、興味を持たせるために過剰な言葉を選んでしまうのも,そのような人間の性なのだろう。
 社会環境の中で,生活に追い込まれた人間が一線を越えた結果がこのような悲惨な結果を招いてしまった気がしてならない。社会のモラル、個人のモラルが生んだものなのだ。根本的な社会構造を正していかなければこのような事件は、無限の様に発生していく気がしてならない。
 ただ一言いえることは,この事件は,殺人ほう助ではなく,立派なお金目的の殺人事件で、殺人の手助けをしたことではない。自分自身以外に自分の命を絶つ権利は、誰にもないからである。

大泉洋の歌が聞こえる

 今,キリンのファイヤの缶コーヒーの宣伝が流れていて,挽きたて〜挽きたて〜とTVの画面と音声が流れている。大泉洋の出ているCM が毎日流れている。言葉は悪いが,公害であると思いつつ嫌悪感を抱いている。決して,コーヒーを買わないと思いつつ、暇なときに挽きたて〜と口ずさんでしまう自分に嫌気をさしてしまうこの頃。確かに,選挙運動の連呼の効果はあるが,あまり,しつこいと、意地になってもこのコーヒーは買いたくないと思うのは,自分だけだろうか。歌を口ずさむんでしまうのは、広告の意図にハマってしまったのだが、もっと,感動させる力量の缶コーヒーの宣伝はないのだろうか。軽薄な様に扱われているタレントはそのままで良いのだろうかと、ミルでコーヒーを挽きながらTVがいつもの様に流れている。
 夢とかなんとかいっていても,広告を作る作り手の方が,いつまでの方法論に拘っていて,受けを狙う広告しか製作出来ないのは想像力の欠乏としか言いようがない。

2007年9月14日金曜日

阿部内閣退陣で、ドンゾコーの流行語が流行る?

 阿部内閣が、もう辞めたと言って安倍晋三が総理大臣を退任した。阿部総理大臣は、総理大臣になる前から、それで良いんじゃんとか、わりといい加減であったことが、周りの新聞記者たちからは騒がれていたが、いざ総理大臣になってしまうと、マスコミはそのことを言わなくなってしまいヨイショをしてしまったことが、今の結果になってしまったのだろう。民意を承けて総理大臣が選出された訳ではなく、世襲制の中で生まれた総理大臣だ。国民年金のことなど解るはずもなく、戦後レジュームの脱却とか、美しい国日本とか、戯けたことを言ってしまったのが良い例だ。そして、いろいろな議員の不祥事に対しても、法律の定めるところでなどと言って、総理大臣としての判断を示さない、謝らないの強引な態度が招いたことだ。
 数の論理でいくつかに重要な法案を通してしまったこともその負の遺産になるが、声高々の前首相の小泉総理大臣が残したいい加減な残務処理が影響したこともあるだろう。小泉は改革と言いながら、公務員の改革は果たして出来たのだろうか、先日の厚生労働省の役人の10ヶ月の給料返却に応じさせたと大臣の舛添さんは言っていたが、法律的には、退職してしまえば強制力はないのだから、何もすることは出来ないが、いかにも10ヶ月分を取り返したことが美化されているが、高級自動車のクレスタが新古車で幾らするのか、舛添大臣は解っていないのだろうか。車3台分でも1000万円は軽く超えてしまうだろうし、家の新築費用を1500万円貰ってしまうことを考えれば貰い得だ。1000万円返しても、解っている大きな数字だけでも1500万円以上得をしていることになる。
 そのような公務員改革もしないで、改革、改革と呪文の様に叫んでいた小泉総理大臣は、いったい何を改革したのだろうか。また、小泉待望論が出ているが、これでまた返り咲きとなったら、この日本はどんだけーではなく、ドンゾコーになってしまうだろう。

2007年8月22日水曜日

フジテレビの深夜番組の質の悪さにびっくり。

 8月22に日の1時頃、フジテレビで放映されていた深夜番組に唖然とさせられた。4月に入社したばかりのアナンサーが出ていたことにも驚いたが、お笑いの二流の若手タレントとの番組であった。
 内容は、蒸し器に入っているバスローブを裸になっているアシスタントディレクターが身につけるというもの。当然ながら、料理用の蒸し器で湯気の立っている状態のものを裸できるのだから、1秒ほどしか着れなかったのだが、やられた方も「シャレにならない。」と言いながら、怒っているし、それを見ている周りも馬鹿笑いに興じている。度が過ぎるとはこの様なことなのだろう。制作している側は、全くの受け狙いで、何の情報にもなりはしない。この場が楽しければ良いただそれだけで満足している。
 ただこのことが気になったのは、このシーンを子供が見ていたらどう感じるだろうか。いじめの行為にマネされたら大変なことになるだろう。この番組のアホさ加減には怒りしか感じないし、元々フジテレビ自信はモラルの制御というものはないのだとつくづく感じてしまった。だから、堀江のときのいざこざの様は馬鹿らしかった。報道を楯にして、テレビ局を正義にしていたのが不快に思ったし、例の納豆問題にしても、関西テレビの性にして、フジ自身は知らぬ存ぜぬで謝罪もしなかったのは驚きである。電波を通じての公共性を訴える資格もないレベルだ。自分のテレビ局で放送している限りは、当然として責任があるし、責任を持たなければならない。
 まして、この様な番組が、いじめのヒントになり、そのようなことが行われたとしたら、済まないでは済まないし、。笑い事では済まされない。ならば、風景のビデオ出を流していた方がましである。また、アナウンサーの4月に入ったばかりの人がもうテレビに出てしまうのにも驚いた。公共のものと考えれば、日本語や言葉使いも含めて教育してテレビに出てきてほしいものだ。かわい子系のアナウンサーも良いのだが、タレントではないので、そのようなもので視聴率を上げると考えているなら、情報番組や報道をいかにも主に放送しているかのごとく会社は言っているが、前面否定を視聴率の取れるバラエティー専門のテレビ局になれば良いのだ。そろそろ、視聴率に媚びない正統派の番組で視聴率が取れるアイディアを考えなければ、テレビの生命線は必要のないものになってしまうのだろう。危機感を持って番組作りをしてもらいたいものだ。

2007年7月31日火曜日

すぐに泣いてしまう子供

 最近の子供は、少しのことでも直ぐ泣くのはなぜなのだろうか。先日、小学校のソフトボールの大会で、ストライクが入らずに泣いてしまった子供が多くいた。涙を流しながらの投球である。かといって、変わりの子供はいないので、その子供が投げている。どうしようもない感情に襲われてしまったのだろうけれど、その子が投球しなければならないのだ。
 ボールが当たっては泣き、走って転んでは泣きとさんざんの泣きのオンパレードだったのだが、果たして、原因はどこにあるのだろうかと考えると、親が見ていることからはじまっていたのだろうと考えてしまった。親は、子供に応援を送るが、子供が窮地に追い込まれたときに親が手助けをして解決出来ることであれば、子供はそのようなことはないのだが、子供自身でkらい結が出来ないことがあれば、どうしようもなくなり泣いてしまうようだ。
 つまり、結論としては、子供が自分自身で解決が出来ないことや、親が見ていることで親に甘えようとすることから直ぐに泣いてしまうことが起こるようだ。この子たちもいずれは親になり、子供が出来てくるのだろうしと考えると、今から子供の本当の独立心を真剣になって養っていかなければ、この子供たちの将来は、あまり、良いものではなく、最後までやりきる集中力をつけなければ、日本のお湯の中に入った教育では、日本の国際競争力は望めない。
 また、子供が親の目を盗んで、悪いことをすると、親に嘘をついてでも自分の正当性を解いて、親だけには自分は良い子供だと思わせて置く子供が増えている。解らなければ怒られないことで事故回避をしているだけで、何の解決も一人では出来ない子に育ってしまう子が増えている。なんとか意識して、自立した子供を育てていかなければと思う昨今である。